2026.7.29

  • 事業者

明治創業の老舗料理店四代目
震災で料理への想いを新たに

割烹 岩戸

明治時代に大槌町で創業。現在は四代目の佐藤剛さんが店主。店名の由来は定かではないが、創業者が岩手県奥州市の岩谷堂出身という説もあるとか。東日本大震災後、現在の町内陸部の大ケ口に店を構えた。手打ち蕎麦や鰻のほか、大槌のジビエやサーモンを取り入れた「大槌之極 松花堂御膳」 も人気。

2026.7.29

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明治創業の老舗料理店四代目
震災で料理への想いを新たに

割烹 岩戸

明治時代に大槌町で創業。現在は四代目の佐藤剛さんが店主。店名の由来は定かではないが、創業者が岩手県奥州市の岩谷堂出身という説もあるとか。東日本大震災後、現在の町内陸部の大ケ口に店を構えた。手打ち蕎麦や鰻のほか、大槌のジビエやサーモンを取り入れた「大槌之極 松花堂御膳」 も人気。

明治、大正、昭和、平成、令和……100年以上の長きにわたり、大槌の祝い事や宴席を彩ってきたのが、割烹岩戸の料理です。東日本大震災で一切の光と色が失われた町に、せめて人々が集える場所を取り戻そうと、四代目の佐藤剛さんがいち早く町内陸部に店を再開したのは震災の翌年。普段使いのランチからハレの日の懐石まで、店の場所は変わっても、多くの町民の思い出に刻まれ続けています。

リングから厨房へ
20歳で料理の道へ

佐藤さんが子どものころ、町役場や銀行などが並ぶ町の中心部で割烹岩戸は暖簾を出していました。遠洋サケマス漁などで景気の良かった時代。広いお座敷では、職場や消防団の新年会や忘年会、大漁のお祝いや祭りの打ち上げ……さまざまな宴が催され、大人たちが出入りしていたことを子ども心に憶えています。

にぎわう店の上の自宅で育った佐藤さん。県立釜石南高校でボクシングにのめりこみ、卒業と同時に上京を決意しました。「ボクシングをやりたいがために、『いずれ店を継ぐから東京へ行かせてくれ』と親父に頭を下げたんです。不純な動機だったんですよ」。苦笑いを浮かべます。
プロライセンスを取得し、約4年間リングに立った後に、日本料理の道へ。「すべてが中途半端だった」と自嘲気味に語る佐藤さんですが、父との約束を果たすため、過酷な料理人修行を始めました。二十二歳のころのことです。
「30歳になったら大槌に戻ろう」。10年で一人前の料理人になると決めて、腕の良さに定評のある料理長に弟子入りしました。当時の日本料理の修行は、料理長を頂点とした徒弟制。まず洗い場での下積みから始まって、食材の下処理、まかないづくり、焼き場、出汁(だし)引き、刺身……一通りを経験するのに10年という世界を一歩一歩進みました。

「そのころの日本料理はまだ血気盛んな職人の世界。料理長が経営者と喧嘩をして、俺たち料理人全員を引き連れて別の店に移るなんてこともザラ。結果、当初考えていたよりもだいぶ長く20年間東京で修業して、8軒の店を経験しました」
佐藤さんが子どものころ、町役場や銀行などが並ぶ町の中心部で割烹岩戸は暖簾を出していました。遠洋サケマス漁などで景気の良かった時代。広いお座敷では、職場や消防団の新年会や忘年会、大漁のお祝いや祭りの打ち上げ……さまざまな宴が催され、大人たちが出入りしていたことを子ども心に憶えています。

にぎわう店の上の自宅で育った佐藤さん。県立釜石南高校でボクシングにのめりこみ、卒業と同時に上京を決意しました。「ボクシングをやりたいがために、『いずれ店を継ぐから東京へ行かせてくれ』と親父に頭を下げたんです。不純な動機だったんですよ」。苦笑いを浮かべます。
プロライセンスを取得し、約4年間リングに立った後に、日本料理の道へ。「すべてが中途半端だった」と自嘲気味に語る佐藤さんですが、父との約束を果たすため、過酷な料理人修行を始めました。二十二歳のころのことです。
「30歳になったら大槌に戻ろう」。10年で一人前の料理人になると決めて、腕の良さに定評のある料理長に弟子入りしました。当時の日本料理の修行は、料理長を頂点とした徒弟制。まず洗い場での下積みから始まって、食材の下処理、まかないづくり、焼き場、出汁(だし)引き、刺身……一通りを経験するのに10年という世界を一歩一歩進みました。

「そのころの日本料理はまだ血気盛んな職人の世界。料理長が経営者と喧嘩をして、俺たち料理人全員を引き連れて別の店に移るなんてこともザラ。結果、当初考えていたよりもだいぶ長く20年間東京で修業して、8軒の店を経験しました」

俺の武器は“手打ち蕎麦”

40歳を前に、父の体調を心配する母親からの「いい加減、帰ってきたら」という連絡も頻繁になり、いよいよ帰郷を強く意識し始めました。
東京での最後の修行先として選んだのは、手打ち蕎麦の店。「自分で商売をしていく上で、武器になるものが欲しかった」 という理由で選んだ蕎麦は、今では鰻と並ぶ割烹岩戸の看板メニューです。

Uターンしたのは2006年ごろ。このころの大槌は、公共事業の縮小や人口減少で地域経済が冷え込んでいました。20年ぶりの地元は「やっぱり田舎だな」。「ネオンがないこの町で俺は生きていけないんじゃないかと思ったこともありました」と率直に振り返ります。
とはいえ、磨いた腕には自信があった佐藤さん。当時の築地市場をはじめ各地から希少な食材を仕入れるなどして、大槌の人がそれまで食べたことのないような洗練された料理を提供しました。
「今思えば、20年東京にいて、都会かぶれしてました。手が込んでいて見た目も洗練された料理を出そうと意気込んでいました」。父・四郎さんこだわりの鰻の調理技術も習い、「串打ち三年、割き五年、焼き一生」とも言われる技を身につけていきました。

2011年3月11日。肌寒い金曜日の午後でした。法事のお客様を見送った直後、店にいた佐藤さんたちは立っていられないほどの大きな揺れに襲われました。津波が見えてから従業員とともにすぐ近くの城山を駆け上がり、真下に広がる市街地が土煙とともに津波に飲み込まれていく様子を呆然と見ていました。その直前、店舗に戻っていた母親も建物の3階に上がって難を逃れ、翌日、自衛隊に救助されて無事でした。
見慣れた街並みが押し流されていく一部始終を目撃した佐藤さんは「とてもじゃないけど、また店をやろうなんて思いもしませんでした。料理なんてしてる場合じゃなかった」と伏し目がちに語ります。
40歳を前に、父の体調を心配する母親からの「いい加減、帰ってきたら」という連絡も頻繁になり、いよいよ帰郷を強く意識し始めました。
東京での最後の修行先として選んだのは、手打ち蕎麦の店。「自分で商売をしていく上で、武器になるものが欲しかった」 という理由で選んだ蕎麦は、今では鰻と並ぶ割烹岩戸の看板メニューです。

Uターンしたのは2006年ごろ。このころの大槌は、公共事業の縮小や人口減少で地域経済が冷え込んでいました。20年ぶりの地元は「やっぱり田舎だな」。「ネオンがないこの町で俺は生きていけないんじゃないかと思ったこともありました」と率直に振り返ります。
とはいえ、磨いた腕には自信があった佐藤さん。当時の築地市場をはじめ各地から希少な食材を仕入れるなどして、大槌の人がそれまで食べたことのないような洗練された料理を提供しました。
「今思えば、20年東京にいて、都会かぶれしてました。手が込んでいて見た目も洗練された料理を出そうと意気込んでいました」。父・四郎さんこだわりの鰻の調理技術も習い、「串打ち三年、割き五年、焼き一生」とも言われる技を身につけていきました。

2011年3月11日。肌寒い金曜日の午後でした。法事のお客様を見送った直後、店にいた佐藤さんたちは立っていられないほどの大きな揺れに襲われました。津波が見えてから従業員とともにすぐ近くの城山を駆け上がり、真下に広がる市街地が土煙とともに津波に飲み込まれていく様子を呆然と見ていました。その直前、店舗に戻っていた母親も建物の3階に上がって難を逃れ、翌日、自衛隊に救助されて無事でした。
見慣れた街並みが押し流されていく一部始終を目撃した佐藤さんは「とてもじゃないけど、また店をやろうなんて思いもしませんでした。料理なんてしてる場合じゃなかった」と伏し目がちに語ります。

「俺には料理しかない」
割烹再開を決意

しかし、思いのほか早く、再び包丁を握る機会がやってきました。避難所に身を寄せて数日たつと、カップラーメンやパンだけでなく、コメや野菜などの食品が支援物資として届き始めたのです。

「避難しているおかあさんたちの炊き出しを手伝わせてもらうようになったら、わいわい言いながら料理するのが意外に楽しくて」。家族の安否も分からない町民も少なくない避難所で、被災者自身の手づくりの料理は多くの人の心身を温めました。その光景を見た佐藤さん。「ああ、やっぱり俺には料理しかないんだなと気づかされました」。また暖簾を出そうという気持ちが湧いてきたと話します。
炊き出しやおらが大槌夢広場が運営する復興食堂のメニュー開発などを手伝いながら、店再開の準備を始め、翌年2012年7月には、親戚から譲り受けた現在の場所で営業を再開しました。

季節は初夏。大槌の風物詩だった割烹岩戸の鰻を待ちわびた常連客は、店の再開を喜び、2年ぶりの鰻重に舌鼓を打ちました。津波で甚大な被害を受けた町にはまだ灯りが少ない時期。町民だけでなく、復興事業のために大槌に滞在する人たちや内陸に避難した人たちなどでにぎわいました。
震災は、佐藤さんの料理観を根本から変えました。「震災で食材のありがたみを痛感しました。洗練されたものや見映えの良いものではなく、田舎だからこそ地元の食材を使った、安くて美味しい料理の方がいい。映えない見た目でも美味しいものはたくさんある。自信を持ってそう言えるようになった」と語ります。

わらびやぜんまい、しどけなど、色合いは地味でも風味豊かな山の幸、わかめやほやなど季節を届ける海の幸……近年は、町の特産として定着しつつある大槌ジビエや大槌サーモンも。日本料理の固定観念にとらわれない食材が並びます。
「人口は減っているけど、志を持って頑張る人がいるのが大槌。そういう人たちの作る食材を使った料理を作り続けていきたいです」
(2026年5月取材)
しかし、思いのほか早く、再び包丁を握る機会がやってきました。避難所に身を寄せて数日たつと、カップラーメンやパンだけでなく、コメや野菜などの食品が支援物資として届き始めたのです。

「避難しているおかあさんたちの炊き出しを手伝わせてもらうようになったら、わいわい言いながら料理するのが意外に楽しくて」。家族の安否も分からない町民も少なくない避難所で、被災者自身の手づくりの料理は多くの人の心身を温めました。その光景を見た佐藤さん。「ああ、やっぱり俺には料理しかないんだなと気づかされました」。また暖簾を出そうという気持ちが湧いてきたと話します。
炊き出しやおらが大槌夢広場が運営する復興食堂のメニュー開発などを手伝いながら、店再開の準備を始め、翌年2012年7月には、親戚から譲り受けた現在の場所で営業を再開しました。

季節は初夏。大槌の風物詩だった割烹岩戸の鰻を待ちわびた常連客は、店の再開を喜び、2年ぶりの鰻重に舌鼓を打ちました。津波で甚大な被害を受けた町にはまだ灯りが少ない時期。町民だけでなく、復興事業のために大槌に滞在する人たちや内陸に避難した人たちなどでにぎわいました。
震災は、佐藤さんの料理観を根本から変えました。「震災で食材のありがたみを痛感しました。洗練されたものや見映えの良いものではなく、田舎だからこそ地元の食材を使った、安くて美味しい料理の方がいい。映えない見た目でも美味しいものはたくさんある。自信を持ってそう言えるようになった」と語ります。

わらびやぜんまい、しどけなど、色合いは地味でも風味豊かな山の幸、わかめやほやなど季節を届ける海の幸……近年は、町の特産として定着しつつある大槌ジビエや大槌サーモンも。日本料理の固定観念にとらわれない食材が並びます。
「人口は減っているけど、志を持って頑張る人がいるのが大槌。そういう人たちの作る食材を使った料理を作り続けていきたいです」
(2026年5月取材)

取材、記事:手塚さや香

写真:石川貴子

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