鮮やかなグリーンのブラウスを身につけ、さわやかな装いでおしゃっち(大槌町文化交流センター)のエントランスホールに入ってきたテルさん。すぐ近くの災害公営住宅で暮らすテルさんは、毎日午後2時くらいになると、おしゃっちの3階にある町立図書館に来て、その日の全国紙や地方紙に目を通します。震災の翌年から約10年間、専用のノートに新聞のコラムを書き写す日課を欠かすことはありませんでした。
おしゃっちで働くスタッフはもちろん、利用者も知り合いばかり。「テルさん、この前のコンサートどうだった?」などと話しかけられ、時にはショッピングカートに腰を下ろして、おしゃべりに花を咲かせます。
昭和4年、大槌で漁師の家に生まれたテルさんは尋常小学校などを出て、県立大槌高校の前身・実科女学校に進みました。当時は太平洋戦争の最中で、誰もが厳しい暮らしを余儀なくされました。「校庭でみんなで大豆を育てて、食料の足しにして、白米が少ないから海藻をたくさん混ぜて炊いた」。テルさんの記憶は鮮明です。
軍国主義的な教育のもと、体育ではアメリカやイギリスの大統領に見立てた藁人形をなぎなたで突くといった授業もあり、テルさんも「軍国少女」として成長しました。卒業後は、隣りの釜石市にある製鉄所で事務職員として働くことになりました。昭和20(1945)年4月。終戦の4ヶ月前のことでした。
7月14日、釜石は艦砲射撃を受け、約2,600発の砲弾が市街地に撃ち込まれました。標的となったのはテルさんが勤める製鉄所。空襲警報が鳴るや否や、テルさんは職場の人たちとともに防空壕に逃げ込みました。
何時間かたったころ防空壕を出てみると、釜石のまちは火の海で、そこらじゅうに遺体が散乱していました。泣きながら駆け出したテルさんのすぐ上を機銃掃射の戦闘機が飛び、「操縦士の顔が見えるほどの距離」だったことを今も憶えています。同僚と一緒に泣きながら遺体をまたぎ、大槌へつながる旧道を歩き、家までたどり着きました。それでも日本が戦争で勝つことを疑わなかったというテルさん。「今になると馬鹿みたいだと思うけれど。教育ってね、本当に怖ろしいの」とつぶやきます。
鮮やかなグリーンのブラウスを身につけ、さわやかな装いでおしゃっち(大槌町文化交流センター)のエントランスホールに入ってきたテルさん。すぐ近くの災害公営住宅で暮らすテルさんは、毎日午後2時くらいになると、おしゃっちの3階にある町立図書館に来て、その日の全国紙や地方紙に目を通します。震災の翌年から約10年間、専用のノートに新聞のコラムを書き写す日課を欠かすことはありませんでした。
おしゃっちで働くスタッフはもちろん、利用者も知り合いばかり。「テルさん、この前のコンサートどうだった?」などと話しかけられ、時にはショッピングカートに腰を下ろして、おしゃべりに花を咲かせます。
昭和4年、大槌で漁師の家に生まれたテルさんは尋常小学校などを出て、県立大槌高校の前身・実科女学校に進みました。当時は太平洋戦争の最中で、誰もが厳しい暮らしを余儀なくされました。「校庭でみんなで大豆を育てて、食料の足しにして、白米が少ないから海藻をたくさん混ぜて炊いた」。テルさんの記憶は鮮明です。
軍国主義的な教育のもと、体育ではアメリカやイギリスの大統領に見立てた藁人形をなぎなたで突くといった授業もあり、テルさんも「軍国少女」として成長しました。卒業後は、隣りの釜石市にある製鉄所で事務職員として働くことになりました。昭和20(1945)年4月。終戦の4ヶ月前のことでした。
7月14日、釜石は艦砲射撃を受け、約2,600発の砲弾が市街地に撃ち込まれました。標的となったのはテルさんが勤める製鉄所。空襲警報が鳴るや否や、テルさんは職場の人たちとともに防空壕に逃げ込みました。
何時間かたったころ防空壕を出てみると、釜石のまちは火の海で、そこらじゅうに遺体が散乱していました。泣きながら駆け出したテルさんのすぐ上を機銃掃射の戦闘機が飛び、「操縦士の顔が見えるほどの距離」だったことを今も憶えています。同僚と一緒に泣きながら遺体をまたぎ、大槌へつながる旧道を歩き、家までたどり着きました。それでも日本が戦争で勝つことを疑わなかったというテルさん。「今になると馬鹿みたいだと思うけれど。教育ってね、本当に怖ろしいの」とつぶやきます。