2026.2.6

  • Uターン

大槌の野山でのびのびと
牛と子どもらの心を育む

ささき・よしお

佐々木義男さん

江戸時代から代々酪農を生業としてきた家系。中学卒業後に大槌を離れ、自動車整備士となり、2006年にUターン。佐々木さんの代で和牛の繁殖に転向すると、牛たちの気性の穏やかさや飼育方法が話題に。近隣市町村からの研修や大槌学園の生徒たちを受け入れ、学びの場を提供している。金沢地区地域復興協議会会長、民生委員、農家組合長も務める。

2026.2.6

  • Uターン

大槌の野山でのびのびと
牛と子どもらの心を育む

ささき・よしお

佐々木義男さん

江戸時代から代々酪農を生業としてきた家系。中学卒業後に大槌を離れ、自動車整備士となり、2006年にUターン。佐々木さんの代で和牛の繁殖に転向すると、牛たちの気性の穏やかさや飼育方法が話題に。近隣市町村からの研修や大槌学園の生徒たちを受け入れ、学びの場を提供している。金沢地区地域復興協議会会長、民生委員、農家組合長も務める。

「生まれたときには、牛と田んぼがそこにあった」――。のどかな風景が広がる大槌町の金沢地区で、牛を育て、田畑を耕し生きる佐々木義男さん。先祖代々続く営みの中で取り組むのは、子どもたちに五感を通してふるさとを伝え、心を育んでいく活動です。時に山のようにどっしりと、あるいは川のようにさっぱりと子どもたちに接する佐々木さんの背景には、自身の生い立ちから繋がる深い思いがありました。

牛とのふれあいを通して
ふるさとを学び感じる場

「どうも、牛飼いの佐々木です!」。そう挨拶し、ニカッと笑ってくれたのは、佐々木義男さん。大槌町金沢地区で牛の繁殖と農業に取り組んでいます。
佐々木家と牛にまつわる歴史は古く、南部藩の時代に徳川幕府が酪農を推奨したことをきっかけに“牛飼い”となり、以来、牛とともにある生活を今日まで続けてきました。江戸時代の村の長である“肝煎(きもいり)”として年貢米の調整に当たっていた証文や、オオカミの駆除に対する謝礼を支払った記録など、大槌の歴史を紐解く上で重要な資料も、佐々木家から数多く見つかっています。
「『米や雑穀の代わりに砂金で年貢を納めたい』なんて要望を代官所に出していたところを見ると、やっぱり金沢では砂金が取れたんだなぁと思うよね」。

佐々木さんの牛舎や田んぼがあるのは、戸保野(とぼの)と呼ばれるエリア。酪農から和牛の繁殖に転向してからは、ストレス無くのびのび牛を育てる方法を追求してきました。牛の気持ちになって考えた末、行き着いたのは「牛を自由に歩かせる」こと。牛舎の中に牛を繋がず、牧草地へ自由に出入りできるようにしました。加えて、とにかく掃除を徹底し、床に敷いた藁を一日2回交換するようにしたところ、畜舎特有の匂いがほとんどしなくなったのだとか。同業者の中で「義男さんのところの牛はきれいだ」と話題となり、近隣市町村から見学や研修の依頼が舞い込むようになりました。

その評判は学校関係者の耳に届き、2012年には大槌学園“ふるさと科”の授業の受け入れをスタート。ふるさとの創生や町の発展を担う人材を育成するため、地域が一体となり子どもたちの学びの場を創出していこうという、大槌町独自の小中一貫教育カリキュラムです。しかし、当時はまだ東日本大震災の被害が色濃く、復興へ歩み始めたばかり。佐々木さんは牛とのふれあいを通して、傷ついた子どもたちの心に寄り添いました。
「子どもから『仮設住宅で牛を飼いたい』と言われて。そう感じるぐらい好きになってもらえたんだなと嬉しかった。牛や動物には、人間には無い力があるんだべね」。
佐々木さんは当時を懐かしむように、しみじみと腕を組みます。

2020年に新型コロナウイルスが流行し始めると、生活が一変してしまった子どもたちを想い、佐々木さんは「人間同士が接触できない分、牛ともっとふれあってもらおう!」と奮起。これまでは柵越しに牛を撫でてもらっていましたが、思い切って牛舎の中へ招き入れ、ブラッシングや聴診器で牛の心臓の音を聴く体験を楽しんでもらいました。子どもたちが大喜びする中、佐々木さんは注意深く様子を見守っていましたが、牛たちは大人しく一人一人に寄り添っていたそうです。
「牛が気持ちいいように、過ごしやすいようにと育てているから、気性が穏やかなんだよね。でも、もしかしたら自分の子どもたちへの思いが、牛にも伝わっていたのかもしれない――。そう思うと『ああ、俺がやってきたことは間違いじゃなかったんだなぁ』って、なんだか感動しちゃったよ」。
「どうも、牛飼いの佐々木です!」。そう挨拶し、ニカッと笑ってくれたのは、佐々木義男さん。大槌町金沢地区で牛の繁殖と農業に取り組んでいます。
佐々木家と牛にまつわる歴史は古く、南部藩の時代に徳川幕府が酪農を推奨したことをきっかけに“牛飼い”となり、以来、牛とともにある生活を今日まで続けてきました。江戸時代の村の長である“肝煎(きもいり)”として年貢米の調整に当たっていた証文や、オオカミの駆除に対する謝礼を支払った記録など、大槌の歴史を紐解く上で重要な資料も、佐々木家から数多く見つかっています。
「『米や雑穀の代わりに砂金で年貢を納めたい』なんて要望を代官所に出していたところを見ると、やっぱり金沢では砂金が取れたんだなぁと思うよね」。

佐々木さんの牛舎や田んぼがあるのは、戸保野(とぼの)と呼ばれるエリア。酪農から和牛の繁殖に転向してからは、ストレス無くのびのび牛を育てる方法を追求してきました。牛の気持ちになって考えた末、行き着いたのは「牛を自由に歩かせる」こと。牛舎の中に牛を繋がず、牧草地へ自由に出入りできるようにしました。加えて、とにかく掃除を徹底し、床に敷いた藁を一日2回交換するようにしたところ、畜舎特有の匂いがほとんどしなくなったのだとか。同業者の中で「義男さんのところの牛はきれいだ」と話題となり、近隣市町村から見学や研修の依頼が舞い込むようになりました。

その評判は学校関係者の耳に届き、2012年には大槌学園“ふるさと科”の授業の受け入れをスタート。ふるさとの創生や町の発展を担う人材を育成するため、地域が一体となり子どもたちの学びの場を創出していこうという、大槌町独自の小中一貫教育カリキュラムです。しかし、当時はまだ東日本大震災の被害が色濃く、復興へ歩み始めたばかり。佐々木さんは牛とのふれあいを通して、傷ついた子どもたちの心に寄り添いました。
「子どもから『仮設住宅で牛を飼いたい』と言われて。そう感じるぐらい好きになってもらえたんだなと嬉しかった。牛や動物には、人間には無い力があるんだべね」。
佐々木さんは当時を懐かしむように、しみじみと腕を組みます。

2020年に新型コロナウイルスが流行し始めると、生活が一変してしまった子どもたちを想い、佐々木さんは「人間同士が接触できない分、牛ともっとふれあってもらおう!」と奮起。これまでは柵越しに牛を撫でてもらっていましたが、思い切って牛舎の中へ招き入れ、ブラッシングや聴診器で牛の心臓の音を聴く体験を楽しんでもらいました。子どもたちが大喜びする中、佐々木さんは注意深く様子を見守っていましたが、牛たちは大人しく一人一人に寄り添っていたそうです。
「牛が気持ちいいように、過ごしやすいようにと育てているから、気性が穏やかなんだよね。でも、もしかしたら自分の子どもたちへの思いが、牛にも伝わっていたのかもしれない――。そう思うと『ああ、俺がやってきたことは間違いじゃなかったんだなぁ』って、なんだか感動しちゃったよ」。

事情を抱えた子にも寄り添い
言葉や声を引き出したい

2023年、佐々木さんのもとに一本の電話が。「この子たちにも“ふるさと科”をやってくれませんか」。大槌学園のスクールソーシャルワーカーからの相談でした。様々な事情で学校に通うことができていない生徒たちのために特別な学びの機会を作りたいという熱意に共感し、佐々木さんはすぐに快諾。授業はつつがなく終わりましたが「これまで通りの自分のやり方で本当によかったのか」という思いが、佐々木さんの中に渦巻いていました。そんなとき、授業に参加した生徒から感想が届きます。
「『最初は不安だったけれど、牛と触れ合えて楽しかった。義男さんの話を聞いて、なぜか泣きそうになった。少し気持ちが軽くなった』。そう書かれていて、本当に嬉しかった。自分が救われたような気持ちになった。この子たちのために、ほかに自分にできることはないだろうか。この子たちの言葉や声をもっと引き出したいと、心から思った」。
そう力を込める佐々木さん自身もかつて、様々な事情を抱えた子どもの一人でした。

六人兄弟の次男として育った佐々木さん。幼稚園の年長組になったころ、同級生からの嫌がらせが始まりました。先生や他の子どもたちも助けてくれず、酷く傷ついた佐々木さんは幼稚園に通うことが出来なくなりました。なんとか小学校に上がりますが、両親の折り合いも悪く、大人への不信感が募っていったそうです。

中学生になり進路を考える時期になると「ここから逃げ出したい」という一心で、大槌町を離れる決心をします。岐阜県の運送会社に就職し、働きながら職業訓練校の自動車整備士養成講座を受講。東京へ転勤した後も苦心して勉強を続け、国家試験に合格しました。2年間の実務を経て2級整備士となりますが、1973年のオイルショックを機に思い切ってディーラーの整備工場に飛び込み、関東での勤務を経験しました。
「人事担当の人が『お前と一緒に仕事をしてみたい』って色々世話を焼いてくれた。信頼できる大人と出会って、やっと幼い頃の自分と向き合うことができたんだろうね。辛いことも苦しいことも、全ての出来事が今の自分を構成しているんだと、受け入れることができたんだ」。

やがて工場長を任されるまでになりますが、実家で両親を手伝っていた兄の病気が悪化したことから、2006年に大槌町へ帰郷。退職して酪農を継ぐつもりでしたが、盛岡の本社から「釜石市にある営業所の店長をやってくれないか」と打診され、熱意に押され引き受けることに。ショールームでの勤務や営業は初めてのことでしたが、持ち前のサービス精神と視点を変えたアイデアで地域のお客さんの心を掴み、2010年まで勤め上げました。
2023年、佐々木さんのもとに一本の電話が。「この子たちにも“ふるさと科”をやってくれませんか」。大槌学園のスクールソーシャルワーカーからの相談でした。様々な事情で学校に通うことができていない生徒たちのために特別な学びの機会を作りたいという熱意に共感し、佐々木さんはすぐに快諾。授業はつつがなく終わりましたが「これまで通りの自分のやり方で本当によかったのか」という思いが、佐々木さんの中に渦巻いていました。そんなとき、授業に参加した生徒から感想が届きます。
「『最初は不安だったけれど、牛と触れ合えて楽しかった。義男さんの話を聞いて、なぜか泣きそうになった。少し気持ちが軽くなった』。そう書かれていて、本当に嬉しかった。自分が救われたような気持ちになった。この子たちのために、ほかに自分にできることはないだろうか。この子たちの言葉や声をもっと引き出したいと、心から思った」。
そう力を込める佐々木さん自身もかつて、様々な事情を抱えた子どもの一人でした。

六人兄弟の次男として育った佐々木さん。幼稚園の年長組になったころ、同級生からの嫌がらせが始まりました。先生や他の子どもたちも助けてくれず、酷く傷ついた佐々木さんは幼稚園に通うことが出来なくなりました。なんとか小学校に上がりますが、両親の折り合いも悪く、大人への不信感が募っていったそうです。

中学生になり進路を考える時期になると「ここから逃げ出したい」という一心で、大槌町を離れる決心をします。岐阜県の運送会社に就職し、働きながら職業訓練校の自動車整備士養成講座を受講。東京へ転勤した後も苦心して勉強を続け、国家試験に合格しました。2年間の実務を経て2級整備士となりますが、1973年のオイルショックを機に思い切ってディーラーの整備工場に飛び込み、関東での勤務を経験しました。
「人事担当の人が『お前と一緒に仕事をしてみたい』って色々世話を焼いてくれた。信頼できる大人と出会って、やっと幼い頃の自分と向き合うことができたんだろうね。辛いことも苦しいことも、全ての出来事が今の自分を構成しているんだと、受け入れることができたんだ」。

やがて工場長を任されるまでになりますが、実家で両親を手伝っていた兄の病気が悪化したことから、2006年に大槌町へ帰郷。退職して酪農を継ぐつもりでしたが、盛岡の本社から「釜石市にある営業所の店長をやってくれないか」と打診され、熱意に押され引き受けることに。ショールームでの勤務や営業は初めてのことでしたが、持ち前のサービス精神と視点を変えたアイデアで地域のお客さんの心を掴み、2010年まで勤め上げました。

かつて逃げ出したふるさとは
しっくりくる居場所になった

自身の性格について「幼少期の経験もあってか、曲がったことは許せない性分。困っている人は放っておけないし、地域の人や子どもたちの願いはできるだけ叶えてあげたい」と話す佐々木さん。その心根や飾らない人柄が愛され、整備士時代には多くのお得意様を抱えていました。中には芸能人やスポーツ選手もいたのだとか。今でも繋がりは続いており、佐々木さんに会うために大槌町を訪れる人も少なくありません。
佐々木さんにとって大槌町や金沢は、かつて「逃げ出したい」とまで思った場所。しかし、訪ねてきた人を案内したり、子どもたちとの“ふるさと科”を通して、心は少しずつ変化していきました。
「大槌の人が好き。自分を頼ってくれる人や、協力し合える人がいる。大槌に生まれた自分には、やっぱりこの町がしっくりくるのかな。それに大槌には――何て言うのかな、ここにしかない自由があるのかもしれないね」。

2025年の2月には、スクールソーシャルワーカーと協力した企画をさらにパワーアップ。牛とのふれあいに加えて、子どもたちと保護者が一緒になって、昔ながらの味噌づくりを体験してもらいました。お昼ご飯はなんと、佐々木さんの自宅でちゃぶ台を囲み、豚汁とおにぎりを楽しんだのだとか。「子どもたちはもちろん、親御さんの笑顔が印象的だった」と目を細めます。味噌づくり、豆腐づくりといった体験は大人たちから予想を超える反響があり、気付けば金沢地区を飛び出して、安渡公民館や吉里吉里公民館にも出張するようになりました。
「地域の会議や集まりは色々あるけれど、せっかくなら一工夫して、楽しくやったほうがいいじゃない。他の地区にも同じ考えの人がいて、俺に声をかけてくれているんだと思うと、お互いに心強いよね。色んな方向に繋がりを持っていることは本当に大事だと思うから、子どもたちにも伝えていきたい。学校には足が向かなくても『金沢に行きたい』『義男さんのとこなら行ってもいいかな』って思ってもらえたら嬉しいな」。
来年は子どもたちに稲刈りを体験してもらおうと計画中。佐々木さんのもとには今日も、たくさんの笑顔が集います。
(2025年11月取材)
自身の性格について「幼少期の経験もあってか、曲がったことは許せない性分。困っている人は放っておけないし、地域の人や子どもたちの願いはできるだけ叶えてあげたい」と話す佐々木さん。その心根や飾らない人柄が愛され、整備士時代には多くのお得意様を抱えていました。中には芸能人やスポーツ選手もいたのだとか。今でも繋がりは続いており、佐々木さんに会うために大槌町を訪れる人も少なくありません。
佐々木さんにとって大槌町や金沢は、かつて「逃げ出したい」とまで思った場所。しかし、訪ねてきた人を案内したり、子どもたちとの“ふるさと科”を通して、心は少しずつ変化していきました。
「大槌の人が好き。自分を頼ってくれる人や、協力し合える人がいる。大槌に生まれた自分には、やっぱりこの町がしっくりくるのかな。それに大槌には――何て言うのかな、ここにしかない自由があるのかもしれないね」。

2025年の2月には、スクールソーシャルワーカーと協力した企画をさらにパワーアップ。牛とのふれあいに加えて、子どもたちと保護者が一緒になって、昔ながらの味噌づくりを体験してもらいました。お昼ご飯はなんと、佐々木さんの自宅でちゃぶ台を囲み、豚汁とおにぎりを楽しんだのだとか。「子どもたちはもちろん、親御さんの笑顔が印象的だった」と目を細めます。味噌づくり、豆腐づくりといった体験は大人たちから予想を超える反響があり、気付けば金沢地区を飛び出して、安渡公民館や吉里吉里公民館にも出張するようになりました。
「地域の会議や集まりは色々あるけれど、せっかくなら一工夫して、楽しくやったほうがいいじゃない。他の地区にも同じ考えの人がいて、俺に声をかけてくれているんだと思うと、お互いに心強いよね。色んな方向に繋がりを持っていることは本当に大事だと思うから、子どもたちにも伝えていきたい。学校には足が向かなくても『金沢に行きたい』『義男さんのとこなら行ってもいいかな』って思ってもらえたら嬉しいな」。
来年は子どもたちに稲刈りを体験してもらおうと計画中。佐々木さんのもとには今日も、たくさんの笑顔が集います。
(2025年11月取材)

取材、記事:横濱千尋

写真:石川貴子

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