2025.8.22

  • 事業者

「患者さんを大切に」
父の言葉を胸に半世紀

植田医院

花巻市生まれ、大槌町育ち。植田医院院長として診察を行うほか、釜石医師会副会長も務める。2013年に写真集「大槌の津波~その記録、そして出会った人々~」を出版。震災直後に自身が撮影した写真と解説で大災害を後世に伝える。趣味は、登山と写真、マラソン。

2025.8.22

  • 事業者

「患者さんを大切に」
父の言葉を胸に半世紀

植田医院

花巻市生まれ、大槌町育ち。植田医院院長として診察を行うほか、釜石医師会副会長も務める。2013年に写真集「大槌の津波~その記録、そして出会った人々~」を出版。震災直後に自身が撮影した写真と解説で大災害を後世に伝える。趣味は、登山と写真、マラソン。

天井近くに見える太く立派な梁、あたたかみのある床や扉……木のぬくもりにあふれる植田医院は、大槌町で半世紀続く内科と小児科の開業医です。父親の背中を見て育ち、大槌にUターンして跡を継いだ医師の植田俊郎さんは、どんな時もユーモアを忘れない茶目っ気と山岳部で鍛えた不屈の精神の持ち主。持ち前のバイタリティで東日本大震災後、医院を再建し、大槌の医療を支えています。

父に反発するも医者の道に

エントランスで靴を履き替えて建物の中に入ると、高い天井の上の方から光が差し込む広々とした待合室。その左手に、受付や診察室があります。現在の植田医院が建っているのは、大槌の街なかから車で5分ほどのところ。県立大槌病院や住宅が並ぶエリアに、東日本大震災から4年後の2015年に完成しました。

大槌町に植田医院を開業したのは、植田さんの父・英男さん。大槌湾の対岸・釜石市箱崎町出身の英男さんは、戦時中、満州の医大に進学し、そこで終戦を迎えました。帰国後は、岩手医学専門学校(現在の岩手医大)に編入して医師になり、いくつかの病院で働いた後、出身地に近い大槌町で開業しました。

植田さんが育った大槌の家は、1階の居間の隣に診察室があるという職住一体の暮らし。子どものころは入院患者の病床もあったため、すぐそばに患者さんがいるのが当たり前という生活でした。

父・英男さんはいつもにこにこしていて、特に子どもの患者にはやさしかったと言います。急患の患者が来れば、夜でも診察していたという英男さん。口癖は「医者は患者さんに食わせてもらってるんだ」。「晩御飯のおかずも親父の酒も、全部、患者さんからの頂き物なんてこともありました(笑)」というエピソードからも、英男さんの人柄がしのばれます。

そんな地域からの信頼の厚い父でしたが、多感な高校時代には反発したことも。「『俺は医者にはならねえ』と親父に啖呵を切って、建築学科を受験したんだけど、どこも不合格で……」と苦笑いの植田さん。釜石市内の高校を卒業すると上京し、予備校に通いながら建築学科を目指しました。

ところが、満員電車に揺られて通学するうちに、「ネクタイを締めて通勤するサラリーマンは向いていない」と気が付き、方針を変更。医学部進学に舵を切り、猛勉強しました。

「結局、町の開業医だった親父の背中を見て育ったんだよね。親父みたいな生き方もいいなあと思うようになって。医者になりたいというよりは、家を継ぐっていう感覚だったよね」。長男の植田さんが大槌の植田医院の跡を取り、弟さんも開業医として岩手県内で地域医療を支えています。
エントランスで靴を履き替えて建物の中に入ると、高い天井の上の方から光が差し込む広々とした待合室。その左手に、受付や診察室があります。現在の植田医院が建っているのは、大槌の街なかから車で5分ほどのところ。県立大槌病院や住宅が並ぶエリアに、東日本大震災から4年後の2015年に完成しました。

大槌町に植田医院を開業したのは、植田さんの父・英男さん。大槌湾の対岸・釜石市箱崎町出身の英男さんは、戦時中、満州の医大に進学し、そこで終戦を迎えました。帰国後は、岩手医学専門学校(現在の岩手医大)に編入して医師になり、いくつかの病院で働いた後、出身地に近い大槌町で開業しました。

植田さんが育った大槌の家は、1階の居間の隣に診察室があるという職住一体の暮らし。子どものころは入院患者の病床もあったため、すぐそばに患者さんがいるのが当たり前という生活でした。

父・英男さんはいつもにこにこしていて、特に子どもの患者にはやさしかったと言います。急患の患者が来れば、夜でも診察していたという英男さん。口癖は「医者は患者さんに食わせてもらってるんだ」。「晩御飯のおかずも親父の酒も、全部、患者さんからの頂き物なんてこともありました(笑)」というエピソードからも、英男さんの人柄がしのばれます。

そんな地域からの信頼の厚い父でしたが、多感な高校時代には反発したことも。「『俺は医者にはならねえ』と親父に啖呵を切って、建築学科を受験したんだけど、どこも不合格で……」と苦笑いの植田さん。釜石市内の高校を卒業すると上京し、予備校に通いながら建築学科を目指しました。

ところが、満員電車に揺られて通学するうちに、「ネクタイを締めて通勤するサラリーマンは向いていない」と気が付き、方針を変更。医学部進学に舵を切り、猛勉強しました。

「結局、町の開業医だった親父の背中を見て育ったんだよね。親父みたいな生き方もいいなあと思うようになって。医者になりたいというよりは、家を継ぐっていう感覚だったよね」。長男の植田さんが大槌の植田医院の跡を取り、弟さんも開業医として岩手県内で地域医療を支えています。

海外の山にも登った20代
30代、家族でUターン

無事に金沢医科大学に合格すると、山岳部の活動に熱中し、国内最高峰の山々を縦走したという植田さん。同大での研修医時代には、なんと標高8000m級のパキスタン・ガッシャーブルムI峰登頂を目指す登山隊に隊付ドクターとして同行した経験も。

その後は、東京の大学病院で医師としての経験を積み、30代半ばで家族とともに地元・大槌にUターンしました。「勤務医として東京で子ども4人を抱えて生活するのは大変で、まわりからは『家族のことを考えて、早く地元に帰れ』とよく怒られたもんです(笑)」と苦笑い。東京にもう少しいたいという気持ちもありましたが、大槌に戻り、植田医院継承に向けた準備をしながら、釜石市民病院(当時)に勤務。釜石・大槌の地域医療の実情や地域の人たちの生活習慣を体感しました。

診察室での父は昔と変わらず、笑顔を絶やさず、偉ぶるところのない人で、植田医院の待合室ではたくさんの患者さんが診察を待っていました。「医者は患者さんに食わせてもらっている」が口癖だった父は、跡を取ることになった植田さんに「患者さんを大事にしろ」そう何度も言っていました。

そして、1990年10月。さまざまな手続きも完了し、晴れて植田さんが医院に加わり、医師2人体制に。父は「これからは全部、お前の患者なんだ」と植田さんに多くを任せるようになったといいます。2人で患者さんを診ながら勉強しようと思っていた植田さんでしたが、父子2人での診察は、思いのほか短期間で終わってしまいました。2ヶ月後に英男さんが倒れ、翌年に亡くなったのです。

その日から「患者さんを大事にしろ」の父の言葉を胸に、看護師らスタッフと共に「植田医院」の看板を守る日々。町の人口減少や高齢化など、医院をめぐる環境は少しずつ変化したものの、顔なじみの老若男女の患者さんに囲まれたにぎやかな日々が続いていきました。
無事に金沢医科大学に合格すると、山岳部の活動に熱中し、国内最高峰の山々を縦走したという植田さん。同大での研修医時代には、なんと標高8000m級のパキスタン・ガッシャーブルムI峰登頂を目指す登山隊に隊付ドクターとして同行した経験も。

その後は、東京の大学病院で医師としての経験を積み、30代半ばで家族とともに地元・大槌にUターンしました。「勤務医として東京で子ども4人を抱えて生活するのは大変で、まわりからは『家族のことを考えて、早く地元に帰れ』とよく怒られたもんです(笑)」と苦笑い。東京にもう少しいたいという気持ちもありましたが、大槌に戻り、植田医院継承に向けた準備をしながら、釜石市民病院(当時)に勤務。釜石・大槌の地域医療の実情や地域の人たちの生活習慣を体感しました。

診察室での父は昔と変わらず、笑顔を絶やさず、偉ぶるところのない人で、植田医院の待合室ではたくさんの患者さんが診察を待っていました。「医者は患者さんに食わせてもらっている」が口癖だった父は、跡を取ることになった植田さんに「患者さんを大事にしろ」そう何度も言っていました。

そして、1990年10月。さまざまな手続きも完了し、晴れて植田さんが医院に加わり、医師2人体制に。父は「これからは全部、お前の患者なんだ」と植田さんに多くを任せるようになったといいます。2人で患者さんを診ながら勉強しようと思っていた植田さんでしたが、父子2人での診察は、思いのほか短期間で終わってしまいました。2ヶ月後に英男さんが倒れ、翌年に亡くなったのです。

その日から「患者さんを大事にしろ」の父の言葉を胸に、看護師らスタッフと共に「植田医院」の看板を守る日々。町の人口減少や高齢化など、医院をめぐる環境は少しずつ変化したものの、顔なじみの老若男女の患者さんに囲まれたにぎやかな日々が続いていきました。

東日本大震災
「周りの人たちの支えで再建」

そんな穏やかな日常を一変させたのが、2011年の東日本大震災でした。4階建ての医院兼自宅にいた植田さん。大きく長い揺れが収まり、妻の美智子さんらと医療設備や建物の損傷を確認していたところ、美智子さんの「水が見える!」という声に全員が屋上に駆け上がりました。

目に飛び込んできたのは、上がる土煙、津波とともに流れ込む建物や車……。山岳部時代から続けているカメラのシャッターを夢中で切ったと言います。

間一髪、近所で働く人たちも逃げ込んできて、総勢十数人で一夜を明かし、翌朝、自衛隊のヘリで救助され、避難所となっていた弓道場へ。すでに住民でごった返していた避難所内に救護所を設置し、唯一の医師として運営に当たりました。自身が医院から持ち出せたのは聴診器などの入った往診用のカバンのみ。町内では6つの医療機関すべてが被災し、避難者に渡す薬の在庫もない状態でした。

しかし、幸いにも大槌では医師全員が無事でした。「どの避難所に誰がいるという情報が入ってきたので、安心して自分の責任を果たせた。日ごろの信頼関係があればこそ」と振り返ります。

まず先にやるべきことは、治療の優先度を決めるトリアージでした。津波被災地では重傷者が少なかったため、避難所での生活が困難な高齢者を施設に搬送する段取りが中心でした。数日後、長崎大学医療支援チームやAMDAといった災害医療チームが次々と到着、少しずつ医療体制は整いました。

救護所の運営に当たった後は、県立大槌病院で1ヶ月間被災者の診察に当たり、植田医院の仮設診療所を構えたのは、約4ヶ月後の7月。小さなプレハブの建物でしたが、植田さんは万感の想いでした。「お世話になっている薬局の方々が土地やプレハブを探してくれて、まわりの人たちのおかげで再開することができたんです。患者さんの顔を見た時に、『ああ、また大槌で仕事ができる。いつかちゃんと本設でやろう』と思いましたね」

大きな仮設診療所への移転を経て、震災から4年後の2015年2月23日、本設の植田医院での診察が始まりました。この日の植田さんの日記には「朝から患者さん続く。お花がどっさり届く」の文字が並びます。

“土に還る素材”にこだわって建てた新しい植田医院。「山が好きだから、せめて環境にやさしいものを建てたいと思って」、国産材はもちろん、断熱材には羊毛、鉛は極力使用しない、など徹底しています。

「病院という用途に限らず、次の世代にもずっと使ってもらえるものにしたかった」という植田さんの自然を愛し、大槌を愛するからこその想いが込められています。「大槌はお互いに思いやる、お互いを気遣い合う、そういう人たちの町なんです」と朗らかに笑う植田さん。そんな植田さんの医院には、今日も先生を頼りにたくさんの患者さんが訪れます。
(2025年7月取材)
そんな穏やかな日常を一変させたのが、2011年の東日本大震災でした。4階建ての医院兼自宅にいた植田さん。大きく長い揺れが収まり、妻の美智子さんらと医療設備や建物の損傷を確認していたところ、美智子さんの「水が見える!」という声に全員が屋上に駆け上がりました。

目に飛び込んできたのは、上がる土煙、津波とともに流れ込む建物や車……。山岳部時代から続けているカメラのシャッターを夢中で切ったと言います。

間一髪、近所で働く人たちも逃げ込んできて、総勢十数人で一夜を明かし、翌朝、自衛隊のヘリで救助され、避難所となっていた弓道場へ。すでに住民でごった返していた避難所内に救護所を設置し、唯一の医師として運営に当たりました。自身が医院から持ち出せたのは聴診器などの入った往診用のカバンのみ。町内では6つの医療機関すべてが被災し、避難者に渡す薬の在庫もない状態でした。

しかし、幸いにも大槌では医師全員が無事でした。「どの避難所に誰がいるという情報が入ってきたので、安心して自分の責任を果たせた。日ごろの信頼関係があればこそ」と振り返ります。

まず先にやるべきことは、治療の優先度を決めるトリアージでした。津波被災地では重傷者が少なかったため、避難所での生活が困難な高齢者を施設に搬送する段取りが中心でした。数日後、長崎大学医療支援チームやAMDAといった災害医療チームが次々と到着、少しずつ医療体制は整いました。

救護所の運営に当たった後は、県立大槌病院で1ヶ月間被災者の診察に当たり、植田医院の仮設診療所を構えたのは、約4ヶ月後の7月。小さなプレハブの建物でしたが、植田さんは万感の想いでした。「お世話になっている薬局の方々が土地やプレハブを探してくれて、まわりの人たちのおかげで再開することができたんです。患者さんの顔を見た時に、『ああ、また大槌で仕事ができる。いつかちゃんと本設でやろう』と思いましたね」

大きな仮設診療所への移転を経て、震災から4年後の2015年2月23日、本設の植田医院での診察が始まりました。この日の植田さんの日記には「朝から患者さん続く。お花がどっさり届く」の文字が並びます。

“土に還る素材”にこだわって建てた新しい植田医院。「山が好きだから、せめて環境にやさしいものを建てたいと思って」、国産材はもちろん、断熱材には羊毛、鉛は極力使用しない、など徹底しています。

「病院という用途に限らず、次の世代にもずっと使ってもらえるものにしたかった」という植田さんの自然を愛し、大槌を愛するからこその想いが込められています。「大槌はお互いに思いやる、お互いを気遣い合う、そういう人たちの町なんです」と朗らかに笑う植田さん。そんな植田さんの医院には、今日も先生を頼りにたくさんの患者さんが訪れます。
(2025年7月取材)

取材、記事:手塚さや香

写真:石川貴子

この記事をシェアする

運営:一般社団法人 おらが大槌夢広場 / 大槌町移住定住事務局

岩手県上閉伊郡大槌町小鎚27-3-4 シーサイドタウンマスト2F
otsuchiiju@gmail.com|080-8162-8516

©2022 KOKOKARAOTSUCHI

IターンUターン大槌育ちちおこ事業者地域活動
すべて見る

presented by