エントランスで靴を履き替えて建物の中に入ると、高い天井の上の方から光が差し込む広々とした待合室。その左手に、受付や診察室があります。現在の植田医院が建っているのは、大槌の街なかから車で5分ほどのところ。県立大槌病院や住宅が並ぶエリアに、東日本大震災から4年後の2015年に完成しました。
大槌町に植田医院を開業したのは、植田さんの父・英男さん。大槌湾の対岸・釜石市箱崎町出身の英男さんは、戦時中、満州の医大に進学し、そこで終戦を迎えました。帰国後は、岩手医学専門学校(現在の岩手医大)に編入して医師になり、いくつかの病院で働いた後、出身地に近い大槌町で開業しました。
植田さんが育った大槌の家は、1階の居間の隣に診察室があるという職住一体の暮らし。子どものころは入院患者の病床もあったため、すぐそばに患者さんがいるのが当たり前という生活でした。
父・英男さんはいつもにこにこしていて、特に子どもの患者にはやさしかったと言います。急患の患者が来れば、夜でも診察していたという英男さん。口癖は「医者は患者さんに食わせてもらってるんだ」。「晩御飯のおかずも親父の酒も、全部、患者さんからの頂き物なんてこともありました(笑)」というエピソードからも、英男さんの人柄がしのばれます。
そんな地域からの信頼の厚い父でしたが、多感な高校時代には反発したことも。「『俺は医者にはならねえ』と親父に啖呵を切って、建築学科を受験したんだけど、どこも不合格で……」と苦笑いの植田さん。釜石市内の高校を卒業すると上京し、予備校に通いながら建築学科を目指しました。
ところが、満員電車に揺られて通学するうちに、「ネクタイを締めて通勤するサラリーマンは向いていない」と気が付き、方針を変更。医学部進学に舵を切り、猛勉強しました。
「結局、町の開業医だった親父の背中を見て育ったんだよね。親父みたいな生き方もいいなあと思うようになって。医者になりたいというよりは、家を継ぐっていう感覚だったよね」。長男の植田さんが大槌の植田医院の跡を取り、弟さんも開業医として岩手県内で地域医療を支えています。
エントランスで靴を履き替えて建物の中に入ると、高い天井の上の方から光が差し込む広々とした待合室。その左手に、受付や診察室があります。現在の植田医院が建っているのは、大槌の街なかから車で5分ほどのところ。県立大槌病院や住宅が並ぶエリアに、東日本大震災から4年後の2015年に完成しました。
大槌町に植田医院を開業したのは、植田さんの父・英男さん。大槌湾の対岸・釜石市箱崎町出身の英男さんは、戦時中、満州の医大に進学し、そこで終戦を迎えました。帰国後は、岩手医学専門学校(現在の岩手医大)に編入して医師になり、いくつかの病院で働いた後、出身地に近い大槌町で開業しました。
植田さんが育った大槌の家は、1階の居間の隣に診察室があるという職住一体の暮らし。子どものころは入院患者の病床もあったため、すぐそばに患者さんがいるのが当たり前という生活でした。
父・英男さんはいつもにこにこしていて、特に子どもの患者にはやさしかったと言います。急患の患者が来れば、夜でも診察していたという英男さん。口癖は「医者は患者さんに食わせてもらってるんだ」。「晩御飯のおかずも親父の酒も、全部、患者さんからの頂き物なんてこともありました(笑)」というエピソードからも、英男さんの人柄がしのばれます。
そんな地域からの信頼の厚い父でしたが、多感な高校時代には反発したことも。「『俺は医者にはならねえ』と親父に啖呵を切って、建築学科を受験したんだけど、どこも不合格で……」と苦笑いの植田さん。釜石市内の高校を卒業すると上京し、予備校に通いながら建築学科を目指しました。
ところが、満員電車に揺られて通学するうちに、「ネクタイを締めて通勤するサラリーマンは向いていない」と気が付き、方針を変更。医学部進学に舵を切り、猛勉強しました。
「結局、町の開業医だった親父の背中を見て育ったんだよね。親父みたいな生き方もいいなあと思うようになって。医者になりたいというよりは、家を継ぐっていう感覚だったよね」。長男の植田さんが大槌の植田医院の跡を取り、弟さんも開業医として岩手県内で地域医療を支えています。